成立時代や用途ごとに典型となるであろう城址のなかから、整備されて訪問しやすくなったと思われる7城を選んで、お盆休みに見物してきました。
いきなり登山道の急登からはじまり、標高467mの山頂に向けて標高差100m超をぐいぐいと登って行きます。
稜線に到達すると径は左右に分かれて、左手の石碑が立つのが山頂の「一の城」方面。
三岳城跡の石柱が立つ山頂に到着です。
とはいえ、展望は雄大で、東名高速や浜松市街、浜名湖が一望できました。
堅固なのは城の施設ではなくてこの立地なのでなないか?
階段の下に戻って丘陵の上部へと行くことにします。
芝生の広場を過ぎると正面の凸地を登る踏み跡がありましたが、すぐに草に埋もれたので、戻って林道を行くと「中城」の表示がありますが、立入禁止でした。
立入禁止の先の路側の尾根に堀切と思われる亀裂がありました。
下の表の7つを順番に記載していきます。
■三岳城
最初は南北朝時代のお城?です。
浜松市、旧引佐町にある御岳神社の社殿横にある看板が入口で、神社の場所が三ノ丸だという説もありますが...
分岐は何となく虎口っぽく見えなくもないですが、単なる登山道のスイッチバックかもしれません。
向こう側に延びている登山道が二の城方面。
稜線を登っている途中の両サイドに帯状の平坦地が伸びているように見える場所もありますが、気のせいかもしれません。
解説版によると、枡形や帯状贔段は幻覚ではなかったみたいですが、堅固であるとの解説はどうなんでしょうか。
とはいえ、展望は雄大で、東名高速や浜松市街、浜名湖が一望できました。
堅固なのは城の施設ではなくてこの立地なのでなないか?
解説板記載の通り、この城は昭和19(1944)年3月という城跡としては極めて早い時期に国指定史跡となっていますが、文化財等データベースによると、「宗良親王を奉ぜる井伊氏の本城にして親王此處に坐せしことあり東海に於ける官軍の最も重要なる根據地たりしが興國元年正月賊軍の攻略するところとなれり」とあり、後醍醐天皇の皇子である南朝方の宗良(むねよし/むねながの2説あり)親王が根拠地としていたところを、『賊軍』北朝方と戦って負けた場所だったことが指定の主な理由だと思われます。
ただ、人里離れた神社から登山道で登り着き、地域最大の平野と往時の物流動脈である浜名湖を見下ろしていると、その喧騒からの遠さからか、むしろ疎外感が際立って感じられてきて、本当は「この山頂に隠れていたところを追い払われた」くらいの感覚ではないかと思ってしまいました。(個人の感想です)
親王がこの地に居た理由が、福島県の霊山に向かう途中で船が座礁して逃げてきたと伝えられるのもなんだかトホホです。
史跡指定された1944年って、日本は戦争してたんじゃないか?と思ってAIに聞いてみたところ、やはり終戦の前年で、史跡指定された3月にはインパール作戦が始まり、海軍乙事件が起きたとのことでした。
「インパール作戦」は、参加者の4割超が死亡した上に、行方不明・後送患者数が何とわからないという、教科書にも載っている地獄の様な大惨敗で知られますが、「海軍乙事件」*も同レベルの被害をもたらしたとされる一大不祥事で、国全体が機能不全に陥っていた中での出来事でした。
これらの出来事に因果関係はありませんが、現代に生きる我々の感覚では明らかな負け組の南朝の親王が、負けに向かって突き進むのが正義ともてはやされる当時の感性がちょっと不安ではあります。
*海軍大将機が墜落して遭難した乗組員が、意図的に海に投棄した機密作戦書類が全て米軍に渡ったが、保身とメンツが原因とみられる投棄隠ぺいにより、作戦は変更されずにそのまま継続され、各地で敗走が加速された。米軍に渡った作戦文書は、戦後に米軍戦史編纂に従事していた日本人により発見された。
尚、宗良親王を支持したのが「おんな城主直虎」の祖先となる井伊氏で、137年後の1513年にもここで今川氏と戦って敗れており、現在の遺構はその時のものと思われます。
■横地城
次は、菊川市街に近い場所に位置する横地城です。
東遠江を代表する有力武士「横地氏」の本拠地で13世紀後半から14世紀中頃からの遺構が、隣接する「高田大屋敷遺跡」と共に「菊川城館遺跡群」として平成16年に国指定史跡となりました。
県道川上菊川線から横地一族の墓を経由する林道でも行けますが、道幅が狭いので溜池(丑池/上池)の奥にある駐車場から出発。
駐車場のトイレの先から坂を登って行くとすぐに、その名も千畳敷という広場に到着し、正面が神社の階段となっています。
階段の途中には土塁濠跡の標柱があり、それなりに風化した段差が見られました。
社殿付近から奥が、「西の城」と言われる曲輪ですが、藪に埋もれていたので撤退。
芝生の広場を過ぎると正面の凸地を登る踏み跡がありましたが、すぐに草に埋もれたので、戻って林道を行くと「中城」の表示がありますが、立入禁止でした。
看板の裏の丘が本丸の中心部です。
林道は直進して城郭最奥部の一騎駆け(馬が並走できないくらい細く削られた尾根状の防塁)へと続きますが、ここから先は通行止めとなっていたので、「東の城」とも呼ばれる左の本丸へ。
こちらは反対側の大井川の方向。
出曲輪まで来ました。右の茶畑が出曲輪で、正面左が三の曲輪です。
その三の曲輪から今立っているところを見下ろすとこんな感じで、林道をのこのこやってくる敵を狙い打つことができます。
先端のなだらかな尾根には堀切が2つほど切られていますが、風化がすすんでいてちょっと不明瞭。
一段上の二の曲輪に行ってみます。
二の曲輪には休憩用のベンチが置かれ、城の掘立小屋の跡もありました。
深い谷を隔てた上には東尾根曲輪を見上げるので、そこを目指して林道を登って行きますが...
本丸を攻めようとすると、その曲輪の上からばんばん打たれることになります。
北尾根曲輪の上が二段の本丸となっており、最上部には神社がありました。
南曲輪の向こう側の土塁の先にも径が続いていますが、少し先で城域はおしまいかと思います。
■井平城
井平城は第二東名の浜松いなさI.C.と三遠道路のJCTにほど近く、三岳城のオーナーであった「おんな城主直虎」でお馴染みの井伊氏の領地であった井伊谷の上流に位置しており、井伊家の分家にあたる井平氏という、典型的な地方領主の拠点の雰囲気を残しています。
道路の先は井戸跡がある曲輪となっており、左側に舌状に続く尾根には堀が切ってありました。
堀切の反対側の一段高いところが頂上で、遠州灘が遠望できました。
城主の横地氏は守護の斯波氏の配下で有力武士を続けますが、斯波氏に守護を乗っ取られた今川義忠によって1476年に滅ぼされました。
ただ、その義忠も帰路に菊川市内で横地氏残党に襲われて死亡してしまい、今川家では家督相続の内紛が続くことになります。
内紛調停の一環として、義忠の妻の兄弟だった伊勢盛時が室町幕府から出向してきて、後に北条早雲となりました。桶狭間で敗れた義元は義忠の孫です。
■勝間田城
牧ノ原台地の茶畑の中に勝間田城跡の小さな駐車場とトイレがあります。
駐車場の看板に従って農道を登って行きます。
絵の一番上にある本曲輪の奥にも南曲輪があり、城域はそのちょっと先までありました。
絵に描いてある物見台には行けませんでした。
三の曲輪を見上げながら、奥から反時計回りに回り込んで(その間ずっと上から矢玉を浴びながら)お城に入ります。
城に入ると、正面に門があったと思われる土塁の切れ込みがあり、
その土塁の上からこっちを見下ろすとこんな感じとなります。
↓画面中央の平地が西三の曲輪で、
道路を挟んだ反対側が三の曲輪の馬洗いという窪地。
三の曲輪はさらに奥へと広がっているので、出曲輪が見下ろせる土塁を通って先へと行ってみます。
この林道の左側には北尾根曲輪という横付けされた二段の曲輪があり、
林道を挟んで本丸と隣接するのが、下からお饅頭の様に見えた東尾根曲輪で、上に立つと二の曲輪がよく見下ろせます。
東尾根というだけあって尾根が東に続いていますが、2本の深い堀切が刻まれており、容易にここまで来れなくなってます。
最後に、本丸の左奥に延びる暗い径があるので行ってみると、
本丸の隣に南曲輪がありました。
城主の勝間田氏は、前項の横地氏と同族で、同じ1476年に今川義忠に滅ぼされましたが、築城が150年近く新しいためか、堀と土塁の落差も大きく縄張りも断然機能的で、両者を体感することにより室町時代と戦国黎明期の違いが感じられたような気がしました。
■井平城
井平城は第二東名の浜松いなさI.C.と三遠道路のJCTにほど近く、三岳城のオーナーであった「おんな城主直虎」でお馴染みの井伊氏の領地であった井伊谷の上流に位置しており、井伊家の分家にあたる井平氏という、典型的な地方領主の拠点の雰囲気を残しています。
国道257号(浜北三ヶ日)の井平集落内を抜けて、伊平幼稚園の奥にある井平氏居館跡の看板の先を左折したカーブの先のプレハブ小屋の上が城跡です。
■高天神城
追手門跡に城のマップが表示されていますが、細かくて情報量が多いですね。
スイッチバックの遊歩道を登って行くと、右上に四阿とトイレがある三の丸があります。
階段を登って本丸に立つと、入口に元天神社があり、その横の御前曲輪に乗ると、周囲が一望できました。
かつて徳川家康がここを奪還するために築いた包囲網「六砦」の一つ、火ヶ峰砦(中央の坊主頭)が見下ろせました。
的場曲輪という平地から帯曲輪へ行ってみると、石牢(石窟)の跡がありました。
プレハブ小屋のT字を曲がり登って行くと、立派な石碑と駐車スペースがあり、わかりやすい城跡の地図も掲示されていました。
城址の頂上部は個人の宅地となっており、ここから下を見物することにします。
足下を見下ろすと、遺構なのか近代の農地の施設なのかが不明な人工物がありますが、入口から下って行くことにします。
さっそく「土塁」との標示がありますが、これがないと単なる農業用の歩道に感じられます。
解説版の地形図に表示されていた通り、幅150mほどの傾斜の緩い尾根の中央部に僅かな窪みがある土地に、郭状の段差が築かれていました。
上から見て右側の尾根を下って、中央の窪みをみます。
直虎の大河ドラマが放映された時期(9年前?)に整備されたのでしょうか。破損した表示が散見されます。
風化がすすんだのか元々そうだったのか、石垣や土塁の形状も少々曖昧で、栗の実が散乱する段差を歩いていると、城跡に居るのか果樹園にいるのか、切られている段差も果樹園のための造成なのか、よくわからなくなってきました。
一番下まで下って振り返ると、曲輪というには難なく越えられる段差しかなく、傾斜があって居心地が悪そうな平坦部には切株が並んでいます。
もともと栗を栽培していた農地が、直虎ブームに浮かれて文化財となり、木を切られてしまったのだとすると、ちょっと微妙な気持ちになりました。
下の末端まで下ると、(下から見て)右側に旧鳳来寺街道との標識があり、城跡の横に沿った踏み跡を登ると、大手門の標識を過ぎて入口付近の林道に戻りました。
地方豪族居館の裏山にある後詰の城ですが、長篠の戦いなどが行われた現在の新城市へと続く鳳来寺街道に沿って築城されていることから、この地が現在同様、愛知・長野・静岡を結ぶ交通の要衝だったと思われます。
そして、三方ヶ原の戦いの二か月前の1572年10月に、富士川沿いと同時に伊那谷から南下してきた武田方の山県昌景に、第二東名I.C.付近の仏坂で敗れて落城してしまいました。
旧今川領統治のすれ違いにより、武田氏との同盟を一方的に破棄した徳川家康が浜松に転居してから2年後のことで、武田氏が報復の大攻勢を開始した中での出来事でした。
これにより家康は高天神城の東側に加えて三河と遠江の北部ほとんど。自身の領土の3分の1近くを失う大ピンチとなりました。
■高天神城
掛川市(旧小笠郡大東町)にある高天神城は、武田・徳川・今川といった戦国オールスターズの境界に立地していたため、ご存じの方も多いかと思います。
戦国の歴史に詳しい方なら「難攻」のイメージがあり実際そうなのですが、どこが難攻なのか、その複雑怪奇な縄張りを見てみたいと思います。
追手門入口(南口)と搦手入口(北口)がありますが、海側の南口から入場すると、鳥居をくぐった先に追手門跡があります。
そこで、浅羽にある袋井市歴史文化館に展示されている高天神城のジオラマを拝借させていただくことにします。
歴史文化館には他の城跡のジオラマも展示されており、どれも凝った精巧な作りとなっているので一見の価値があると思います。
入場無料。
というわでで、今は画像中央の谷底に居て、これから右側の斜面を登って行きます。
三の丸は↓この画像下部の細長い平地で、すぐ右上に一番高い本丸があります。
ボートの形の本丸の少し高い先頭部が御前曲輪と呼ばれています。
御前曲輪を後にして本丸に降り立つと、
かつて徳川家康がここを奪還するために築いた包囲網「六砦」の一つ、火ヶ峰砦(中央の坊主頭)が見下ろせました。
お互いに結構緊張する距離感だったかと思います。
下を見ると、三の丸と同じ高さに本丸を取り囲むように、バンド状の平地、帯曲輪が切られていました。
ちょっとあそこへ行ってみるべく、本丸から下りて、的場曲輪という平地から帯曲輪へ行ってみると、石牢(石窟)の跡がありました。
1574年の武田軍侵攻時に唯一降伏を拒んだ徳川方の武将・大河内源三郎政局(おおこうちまさちか)が約7年間幽閉されたところだそうです。
そして、西側の山は西の丸と呼ばれる要塞となっています。
井戸曲輪という井戸跡がある平地の階段を登った上の神社が西の丸があったところですが、その前に...
今居る井戸曲輪は、ジオラマでは中央下部で、左側の高いところが神社。
これから行くのが右上にせり出した部分です。
堀切をズルズル滑り落ちて向こう側に登ると、「二の丸 堂の尾曲輪址」という表示。
井楼曲輪の左(西)側に降りると、これまで歩いてきた尾根と並行に溝が掘られており、
その周辺の斜面にも下に向かってU字型の溝(竪堀)が掘られていました。
堂の尾曲輪と井楼曲輪の下に平行に作られている溝と土塁は横堀という防御施設だそうです。
見上げると、先ほど堂の尾曲輪に登る際にずり落ちた堀切がありました。
井戸曲輪に戻り、鳥居をくぐって神社に登ります。
神社の左手奥の堀切を渡ると馬場平という平地で、その先には甚五郎抜け道という脱出路(というか緊急連絡路のようなもの)となってました。
神社の本殿ではなく、一段下に建っている社務所の裏にこっそり回り込み、細い尾根の上に続く踏み跡を行ってみると、
この城最大の巨大な堀切が出現しました。
その堂の尾曲輪を奥へと行くと、もう一度尾根が切り取られており、向こう側に登り返すと、どん詰まりに井楼曲輪跡とありました。
井楼曲輪の左(西)側に降りると、これまで歩いてきた尾根と並行に溝が掘られており、
これで一通り見て回ったことになりますが、まだひとつ隠し砦が残っています。
西の丸から堂の尾曲輪の反対側、馬場平と垂直に、鶴の首のように伸びているこの尾根で、案内図やマップには名称が記載されていない、仮称南曲輪とでもいうような場所です。
ジオラマでも長すぎて途中で製作が打ち切られてしまってます。
往時は城の直下まで内海が入り込んでいて、陸海の交通の要所でもあったとのことでした。
今川義元亡き後に寝返った家臣により徳川方の城となり、前項の井平城落城の年とその前年に武田信玄の攻撃を受けたそうですが、その後どちら側の城となったかは良くわかっていないらしいです。(諸説あり)
今川義元亡き後に寝返った家臣により徳川方の城となり、前項の井平城落城の年とその前年に武田信玄の攻撃を受けたそうですが、その後どちら側の城となったかは良くわかっていないらしいです。(諸説あり)
この城が有名になったのは、三方ヶ原の戦いの2年後となる信玄死去翌年の1574年に、武田勝頼により落とされて武田氏の領土が最大となったことと、その7年後に徳川家康が奪還したことが武田氏滅亡の大きな要因となったことだそうです。
しかし、大砲や飛行機が無い時代に、あの大規模に連なる堀や土塁をどうやって乗り越えて攻め込んだのやら...恐ろしくて想像したくありません。
■諏訪原城
信玄死後の武田氏による遠江奪還の足掛かりとも言える城郭で、築城の翌1574年に国境に相当する高天神城を奪ってからは後方拠点となった模様ですが、長篠の戦いがあった1575年に徳川軍に包囲されて開城し、徳川方の牧野城というお城になりました。
■諏訪原城
次は前項の高天神城と関係が深い諏訪原城です。
牧ノ原台地のお茶畑が、大井川の平野に舌状にせり出した断崖の上に立地しており、名前の通り城内に諏訪神社が祀られていて、諏訪四郎だった武田勝頼が、信玄が死去した1573年に築城を命じました。
昭和の終わりと平成中ばに国指定の史跡となったお城の、ガイダンス施設裏側の茶畑の先に遺構があります。
全貌がわかりやすい島田市教育委員会の資料を加工して掲載させていただきます。
ガイダンス施設があるのが図の左下で、右上が大井川の平野。その河岸段丘に沿って城跡内の斜面を蛇行して横切るのが県道381号(島田岡部)線です。
最初に出てくる大手南外堀はなんだかショボいですね。
ですが、向こう側の暗い植林の中を見ると、三日月型の巨大な窪地が掘ってありました。
空堀の向こうにあるD字型の台地は二の曲輪大手馬出。
少し奥に南外堀と並行する大手北外堀も、あるのかないのかわからない規模ですが、
それと直行する位置にある、さきほどの二の曲輪大手馬出のD字の直線部分から延長されてきた堀は巨大です。
これが外堀。
そして、外堀の延長線上には、もう一つの巨大なD字形の曲輪があります。
二の曲輪中馬出。
植林が伐採されて見えるようになった全貌は圧巻です。
反対側の端にある二の曲輪北馬出には、復元された門と柵のようなものが立っていて、そこまで行くと、外堀と馬出の掘が二重になっており、厳重な防壁となっていました。
それでは、外堀を渡って広大な二の曲輪に入って行きます。
二の曲輪の奥にも外堀と並行する内堀があり、その先は本曲輪となっていました。
緩く下った先にある本曲輪の平地の先は大井川の段丘の上で、大井川を挟んで金谷と島田の市街が一望できました。
大井川を一直線に渡って行くのは、旧国道一号線のトラス橋。
足下直下は内堀を挟んで帯状の曲輪が続いています。
下流側にある東海道線の鉄橋の方は、煙を吹く東海パルプの工場の遠く向こうは藤枝市街で、焼津の街も見えそうです。
内堀に沿って本曲輪を時計回りに行くと、
渡る内堀の底にカンカン井戸。
カンカン井戸から左手に下って行く先には水の手曲輪があるとのことです(画像なし)
内堀から二の曲輪に登り返して外堀沿いへと行くと、堀の向こう側は最初に訪れた二の曲輪大手馬出の反対側で、馬出の中には諏訪神社が建っていました。
最後に、小規模な曲輪群が並ぶ城の東側に行ってみましょう。
外堀沿いを下って行くと、左手に出てくる二の曲輪東内馬出。
そこから外堀に架かる土橋の向こう側にあるのは二の曲輪南馬出。
土橋の上に立っているおばさんが見ている方向にも曲輪みたいな地形がありました。
南馬出から土橋状の踏み跡を通り、駐車場フェンスの先まで行くと、鉄塔が見える二の曲輪東馬出で、巨大な外堀が無くなるこの辺りが城跡の南東端みたいです。
ちなみに、フェンスの向こう側にある駐車場の反対側の道路が旧東海道。
信玄死後の武田氏による遠江奪還の足掛かりとも言える城郭で、築城の翌1574年に国境に相当する高天神城を奪ってからは後方拠点となった模様ですが、長篠の戦いがあった1575年に徳川軍に包囲されて開城し、徳川方の牧野城というお城になりました。
諏訪原城からの撤退により、高天神城は孤立化を深め、1581年に落城。翌82年に武田氏は滅亡しました。
武田氏城郭の一大特徴である三日月堀と丸馬出が顕著なので、長らく武田氏造成時の姿だとおもわれてきましたが、最近の発掘調査で、二の曲輪北馬出をはじめとする多くの施設が徳川氏によるものと推定されるようになってきました。
現物証拠に基づいた考古学による検証なので確実だと思いますが、だとすると、いったいどこの人たちがいつ頃造成したのか興味が湧いてきます。
■浜松城
公園にはお城についての詳しい解説が掲示されていました。
これでおしまい。
■浜松城
浜松城は浜松市役所に隣接する浜松城公園にあります。
今回登場するお城では唯一、近世まで現役で使用されていましたが、石垣は戦国初期の野面積みを残しています。
先ずは富士見櫓跡へ。
晴れた日は本当に富士山が見えるとのことです。
それでは、¥200を払って昭和33年に築城された鉄筋コンクリートの天守閣へ。
右の灰色の建物が市役所で、その先の高いビルが駅周辺。
徳川家康がやってきた三河や惨敗した三方ヶ原の方向はこんな感じ。
お城周辺は市民の憩いの場となっていて、日本庭園や美術館があります。
公園にはお城についての詳しい解説が掲示されていました。
これでおしまい。
長文閲覧ありがとうございました。
●訪問した日;2026年8月14日(金)・15日(土)







































0 件のコメント:
コメントを投稿