2018年10月8日月曜日

身延山~赤沢宿~七面山(ハイキング)

2018年の体育の日の三連休の真ん中の日曜日に、山梨県の身延山にハイキングに行ってきました。
日蓮宗の総本山。久遠寺の三門からスタートです。
予め観光協会に問い合わせた情報によると、この三門の「すぐ裏」が一般車向けの駐車場とのことなので行ってみると、何と門の本体までクルマ1台分もないくらいの(溝はあるが…)本当のすぐ裏でびっくり。
ちょうど自動車でお経を上げに来たお坊さんに聞いてみると、確かに誰でも停めれる駐車場で間違いないとのことでしたので、ありがたく使わせていただくことに。


三門をくぐると、目の前に287段の”菩提梯”が聳え?ます。
心理的にもなかなかのインパクト。


一段の高さがヒザ下くらいある石段を登りながら振り返ると、想像以上の高度感で、上まで登ったら下が霞んでしまいそうです。
幸い途中から立入禁止となっていたので、階段横についているスイッチバック状の径へと逃げます。






登りきると、広場の向こうに本堂が建っています。
さすがはメジャーは宗派の総本山。全てが巨大です。


左側に建つ五重塔は、境内で一番新しい建築物とのことです。


本堂の裏からはじまる表参道に向かうため、谷間の門前町を見下ろしながら本堂を左側から回り込んでいきます。


最初は杉林の中に続く急な舗装道路を登って行きます。


墓地が点在する登山道沿いには山頂を50丁目とする丁目石が設置されています。


標高500mくらいの場所にある丈六堂。


その下に広がるのは無縁仏の墓でしょうか。


舗装道路は急な尾根をつづら折りに登って行きます。


25丁目(標高700mくらい)の大光坊。
山頂がだいぶ近付いてきました。


大光坊で舗装道路は終わり、砂利道がしばらく続いた後は歩道の山道となります。
977mにある法明坊。
これまで尾根上を登ってきた径はここで左折して、山の斜面を奥の院へと斜上していきます。


時折木立の合間より富士山が望めました。


程なく周囲が開けて、奥の院があるロープウェイ駅周辺に到着です。
登山を開始した久遠寺の門前町が足下に見下ろせます。


その左手には富士川対岸の天子山地と奥に富士山が望めます。


ロープウェイ駅から杉の巨木がある石段を登ると、思親閣の仁王門が見えてきました。


門をくぐった奥は本堂の祖師堂です。
これまでとこの先の無事を祈って参拝。


大きな仏像のある祖師堂の左奥を行くと、程なく山頂の展望地です。
正面に南アルプスの山々が広がります。
中央奥の雲がかかる辺りが北岳。







左手の三角形のピークは笊ヶ岳でしょうか。



平坦な山頂部を西へと行くと、これから目指す七面山の展望が開けていました。
ここから感井坊へと下ります。



大型車両が通行できるくらいのダートをしばし下ります。


静かな感井坊。
久遠寺へと下る道はここで左側に切り返しますが、今日は正面の道を奥へと行きます。


感井坊からは赤沢宿に向けて林道が続いていますが、結構荒れた感じがします。
大丈夫かしら?


林道は時折木立の合間に富士山を見ながら斜面をトラバースしていきます。
少し進んで行くと、


お、かなり激しいな。


山が崩れて路面を塞いでいるところが数か所あり、土砂や倒木を乗り越えて進みます。


トラバース道の終わりにある十万部寺。
地面には折れた樹木が散乱しており、人の気配も感じられません。
2012年の冬に同じ道を辿ったときは、林道の路面を普通に歩いて来ることができて、この寺も小奇麗に整備されていたのですが、いつ頃からどのくらいの時間をかけて変わって行ったのでしょうか。


十万部寺のすぐ下で分岐する林道を左へ進み、赤沢宿へと下ろうとすると、こちらも車両の通行が不能の状態でした。
散乱する樹木の状態から推測すると、今夏たくさん通過していった台風によるものと思われます。


舗装された林道を折り返しながら下って行くと、遠くの谷から拡声器を使ったような人の声が響いてきます。
下の赤沢で運動会かなにかをやっているような音響ですが、そんな大勢の人は住んでなかったはず。。。

だいぶ下ってきました。
赤沢まであと少し。


身延山頂から1時間半少々の林道歩きで、山あいの赤沢宿に到着しました。


急斜面に石垣で段々に建てられた家々の合間を急な石畳の路地が通り抜けます。


身延山と七面山という日蓮宗の2つの聖地の中間に位置する赤沢宿は、参拝者の宿場町として江戸時代初期から形成され、参詣者が最も増加した大正から昭和初期に現在の規模となったとされています。
軒下に連なる木の札は、当時の講中の指定宿を示すものだったそうです。


唯一の飲食店と思われるそば屋さん。


その先にある現在も営業しているらしい宿泊施設の江戸屋さん周辺が宿場の中心みたいです。
30数戸の集落に最盛期には9件の宿があり、2005年までは3件が営業していたそうですが、つい10数年前までそんなに宿泊者が居たとは思えないくらい静けさに包まれています。


集落ほぼ全体が、1993年に国の重要伝統的建造物群保存地区に認定されたとのことです。




本当はもっとのんびり滞在したいところですが、まだ道半ばにも達していないので、先を急ぎます。
春木川右岸の急斜面に刻まれた林道を通って七面山表参道の登山口の羽衣へ。
登山口の対岸にある白糸の滝と”お万の方”の銅像。


春木川を橋で渡ったところにあるここから登山開始です。


この山も身延山同様、山頂の敬慎院を50丁目とする丁目石が設置されています。
ただ、標高差が1200mと身延山の約1.5倍ですので、石の間隔もそれなりに間延びしたものとなります。
その代わりといってよいのか、要所に売店を持つ坊があり、途中たくさんのベンチも寄進されており、その気になれば休憩しながらゆっくりと登ることができます。

参道は敬慎院へとほぼ一直線に向かう急な尾根上に折り返しながら設置されており、概ね一定のペースで高さを稼いで行きます。
途中の視界が開けたところからは、先ほど通過した赤沢宿を眼下に見ることができました。
その先の遠くには甲府盆地が広がります。



途中の単調な登路は省略して、これは46丁目の和光門。
50丁目の敬慎院は目と鼻の先です。


ちょうど門の向こう側で鹿が立ち止まりました。
シャッターを切ったら通り過ぎてしまい、右側にケツだけが写りました。
門の向こう側の坂の上に鐘楼の屋根が見えます。


鐘の前で左折して坂を上ったすぐ上が、


随身門の建つ広場です。



門の前の広場は富士山遥拝所で、振り返ると富士山が望めます。


門の中には敬慎院の屋根が見えますが、こちらはのちほどお参りするとして、先ずは七面山の頂上に向かうことにします。


遙拝所の先、門を背にして右手の道に入ると、すぐに広場があり、その先に運搬ケーブルの着所があります。
その右側を荷物運搬用のモノラックのレールをくぐって進んで行きます。


周囲の光景は参道の藪と杉林から一転して、笹原の中の針葉樹の清々しい疎林となります。



登山道はすぐにナナイタガレの脇へとでます。
ロープをまたいで覗いてみます。


登山道はナナイタガレの縁部沿いに進みますが、崩落防止のためでしょうか、崖とは一定
の距離を保つので、覗くことはできません。


そして、ここの登山道もところどころ倒木で埋まっていました。


だいぶ上まで来ました。


倒木の合間の踏み跡を丹念に拾っていくと、徐々に傾斜が緩くなり、


山頂に到着しました。
見晴らしはありません。
もっと先の希望峰まで行きたいところですが、そこそこ時間も経過したので引き返すことにします。


敬慎院への下りの途中で、先ほど赤沢宿までの山中で聞いた拡声器の声が聞こえてきました。
今度は非常に近くから響いており、お題目や菩薩/聖人の名を読み上げているのがはっきりと聞き取れます。
しばらくすると、「は~い次の組、整列してくださ~い」
どうやら記念写真を撮影し始めたみたいです。

遙拝所まで戻ると、団体さんが随身門をバックに記念撮影の最中でした。
高い所に突き出た棒の先がカメラですね。


カメラに背を向け、門をくぐって敬慎院へと下ります。


敬慎院は標高1700mを超える、交通が遮断された山中に並ぶ巨大な寺院群です。
どこからどうやって運んできたのか、自動車も数台あります。
そういえば、冬に来たときはブルドーザーが除雪していたような気がします。

参詣者の団体さんは、数えていないのでわかりませんが、老若男女、優に千人に迫る大人数で、カメラに写ったグループから順番に続々と引き上げてきて、宿舎へと入って行きます。

どうやら県道沿いの角瀬を早朝に出発して一日かけて登ってきた模様です。
これだけの大人数が脱落者を出さずに着実に到着するには、貸し切りバスが乗り入れることができる県道沿いの登山口から直接、相応のペースで、ということになるのでしょう。

それでも、前日に山麓か近隣の大規模な宿泊施設まで旅行し、登山と下山を1日づつ。帰宅が相当遅くなることを我慢した上でも最低二泊三日が必要で、暦通りしか休めないとなると、この三連休が数少ないチャンスなのかもしれません。



さて、日帰りの計画で、修行目的でない自分は、来た道を引き返して下山することにします。
秋の短い日差しは早くも谷底から引き上げて、山の稜線だけを照らします。
登ってくるときは明るく照らされていた赤沢宿も影に覆われてしまいました。



長い下りの途中でその赤沢宿を見下ろし、人々が身延山を越えてあの場所に泊まり、ここを目指した頃の昔日に思いを馳せてみます。
現代人よりも歩き慣れていたとはいえ、久遠寺を早朝に発った団体が到着できる1泊目は赤沢宿。
二日目に敬慎院に宿泊して、三日目は感井坊を越えて久遠寺に戻るのがやっとだったのではないでしょうか。
しかも、身延線が開通した頃は新幹線は計画すらなく、首都圏から久遠寺までの移動で丸一日を要したと思われます。

ということは、敬慎院に到着するだけでも1週間近い休暇が必要だったわけで、世の中全体にまだまだ時間的余裕があったというこということでしょうか。

いや、そもそも講中とは、メンバー全員が費用を積み立てて、年に一度代表者を参拝させるという趣旨が起源だったはず。だとすると、この径を歩いた本人にとっては人生に一度か二度のイベントで、残る講のメンバー達はみんなで不在期間中の埋め合わせをしていたのかもしれません。
良くも悪くも、人間同士の距離が今よりずっと近かったように感じます。

赤沢宿を通過する参拝者がピークに達した頃は、宿に入りきらなかった人々を近隣の民家に泊めたり、短時間の仮眠だけを提供して次に到着した参詣者と入れ替えたりといったことがされていたそうです。
早くに赤沢を追い出されれしまった人々は、どのような時間にどこを歩き、その分をどのような方法で埋め合わせていたのでしょうか。

午後5時を過ぎて人の気配がなくなった参道で、通り過ぎる中適坊の軒下には講中札がぎっしり残ります。
ここもかつては椅子やテーブルではなく床敷で寝泊まりに使用していたのでしょうか。
だとすると、その頃の講中札の人たちは、どこを通ってここまでやって来たのでしょうか。


五丁目くらいからは完全に暗くなってしまい、ヘッドランプを点けて下っていたら、その姿を見た三丁目の神力坊前で遊んでいた子供が、びっくりして慌てて茶屋へと逃げ込んでいきました。
三連休で実家に遊びに来ていたのでしょうか。母親と思われる人に笑われていました。

でも、本当は誰が誰のことを笑ったのか、ちょっと想像がつきませんでした。
今の自分の行動が、この聖地の長い歴史の中で繰り広げられた人々の行動や習慣と比較してどんなものなのかが想像できなくて。

こんな、日もとっぷり暮れた暗闇の中で、せかせか何やってんだろうね。。。


●本日の反省
さて、公共交通機関も終了してしまった羽衣の集落に降り立ったところで、登山口の駐車スペースにデポしてあった折り畳み式自転車が登場。
自家用車を停めた久遠寺の三門まで完全舗装された道を帰路につく。

角瀬までは闇夜に全く灯りのない急勾配の下り坂をブレーキをかけ続けながら。
角瀬からの県道37号線は緩やかな下り基調で交通量も少なく、真剣にこがなくとも快適に飛ばせた。

これは楽勝かと思っていたら、最後の国道52号線が、恐怖のサイクリングとなった。
道幅狭く路肩がほとんどない道路に大型車が頻繁に行き交う上に、急な上り坂も思っていた以上に多い。
並走する道も無く、富士川対岸を走る身延線までは遠いため、仕方なく走行したが、ダンプカーのすれ違いのタイミングに当たると生きた心地がしなかった。

帰り道で夜のこの国道を走る長距離走行と思しき自転車を数台見かけたが、あの恐怖に長時間耐えられるとは、何という勇敢な人たちだろう。
それとも恐怖の感性を最初から持ち合わせていないのか?

2018年10月7日(日)
久遠寺(三門:7:00)→(表参道)→奥の院(親恩閣:9:20)
→感井坊(10:00)→赤沢宿(11:10)→羽衣(11:30)→敬慎院(14:25)
→七面山(15:10)→敬慎院(16:00)→羽衣(18:00)


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