東京2020の関係で、例年とは異なる7月第3週末に移動となった海の日にお出かけしました。
祝日が移動したこの日は4連休の初日となったため、行先を間違えると混雑に巻き込まれるリスクがあるため、間違っても人が押し寄せることがないであろう西上州を行き先としました。
群馬県多野郡神流町にある橋倉集落を流れる橋倉川は、すぐ下流で西隣の上野(うえの)村(この村は島嶼部以外の関東で人口が最小だそうです)と接する、町の最奥部に位置していますが、林業が盛んなためか周辺の林道は全て舗装されています。
その橋倉川沿いを通る林道八倉線の「作原橋」にクルマを停めてスタートです。
橋のすぐ上に砂防ダムが作られているためか、駐車スペースは橋両側の路肩に数台分ずつあります。
まずは、4kmほど下にある橋倉集落に向かって林道を引き返します。
あ、ちなみに作原橋は入渓する場所ではなく脱渓するところです。
撤退となったときにクルマを回収しに来なくてはならないリスクはありますが、入渓地の橋倉周辺の道路が狭いため、混雑回避のためにここに駐車し、歩いていくことにしました。入渓までのアプローチに自転車を使えばもっと楽ちんだと思います。
林道を下る途中にある八倉(ようくら)の集落を抜けて、橋倉集落が迫る少し手前の小さなヘアピンカーブから植林内の作業径に入ります。
下の写真の右端に写っているガードレールの脇が径の入口です。
植林内の踏み跡をトラバース気味に行くと、すぐに下に砂防堰堤が見えてくるので、さっそく入渓しようと降りてみますが、この堰堤はガイドブックなどが言うところのアーチ状大堰堤ではありませんでした。(大きさはごく普通で、アーチ状でもないですし...)
なので、気合を入れなおして沢沿いの植林をガンガン登って行くと、木立の合間からアーチ状大堰堤が見えてきます。
本当に巨大で、堰堤の脇へと続く作業径もありますが、更に先へと進みます。
このとき、ちょうど別のパーティーが堰堤の脇を懸垂で降りていくところで、下ろうとしている人と一瞬目が合いました。
彼らとはその後しばらく前後しながら遡行することとなります。
さて、作業径は堰堤の上流数十メートルのところで、固定ロープで右岸枝沢へと降りていきます。
作業径から枝沢へと降りるロープは、出だしの数メートルで体が宙に浮き、全体重をかけてぶら下がるものでしたので、使う前はちゃんと点検しましょう。
降り立った枝沢と大堰堤の位置関係はこんな感じです。
作業径はさらに、堰堤上の川原に続いていきます。
沢は巨岩が点在するので、面倒を避けるために引き続き右岸の作業径を使用させていただくこととします。
ただ、川の流れから少し離れだけで、植林の中はうだるような暑さとなり、横に見下ろす川が恨めしくなります。
作業径が徐々に間伐の倒木で荒れだし、沢の中の巨岩も見えなくなってきたところで、沢支度をして入渓します。
準備中にさきほど巨大堰堤の脇を懸垂下降で降りて行ったパーティーが遡行してきて、追い越していきます。
歩き始めた沢の中は、植林内よりもぐっと気温が低く、極めて爽快な環境となりました。
数十メートルほど歩くと、最後の堰堤が見えてきます。
最上流にあるこの堰堤は石積みでできており、右岸側から巻きました。(見た目だけの印象ですが、左岸側からも巻けると思います)
堰堤の上は堆積物が溜まり、平坦な川原が続いています。
先ほど追い越していった3人パーティーが、沢の浅瀬に座り込んで涼をとっていました。
涼しい沢の中でも少し速足で歩くと、たちまち汗ばんできます。
関東平野が猛暑日となる今日は、積極的にシャワークライムができる絶好の沢登り日和です。
石積み堰堤から少し歩くと、最初のゴルジュの入口となります。
3~4mの滝が3つあるこのゴルジュの入口は釜の左側をヘツって流れの左から越えます。
落口の先は小さな廊下状となっており、泳いでも・ヘツっても通れます。
途中の1mくらいのギャップは突っ張りですね。
突き当りの左には二連の滝があります。
手前の釜は意外と浅く、右脇を行くと股の上くらいの深さでした。
手前の滝は流れの右を快適に登れます。
その上にある出口の滝は、登るとすれば右コーナーを水流の間隙を縫ってチムニー登りなのでしょうが、水量が多いのとヌメり気味だからといった理由をつけて右岸から巻くことにします。
巻き径は明瞭で、困難なところはありません。
巻いている途中で後続パーティーが入ってくるのが見下ろせました。
巻いた滝の上に立つと、後続の3人もさっそくやってきて、リーダーが直登して右コーナー(下の写真中央のV字状切れ目)から這い上がってきました。
彼らはロープを出して全員直登するとのことなので、引き続き先を行かせてもらうこととします。
次の第2ゴルジュまでの一時間弱の区間は基本的に河原歩きですが、ところどころに小滝と、(ナメというほどではないものの)赤い岩盤が露出した沢床があります。
ゴルジュ間の中間点くらいにランドマークとなる岩潜りがあります。
赤い岩肌と薄緑の透き通った水の美しい渓谷が続きますが、写真で見るとそうでもありません。
820m右岸枝沢出合にあるカツラの大木。
870m付近で右岸、次いで左岸から小滝で落ちる枝沢がでてくると、徐々に側壁が高くなってきて、間もなく核心部のスリットゴルジュ(第2ゴルジュ)に到着します。
右下の大岩の登りやすいところから一段目を小さく巻いて、狭い裂け目に入っていきます。
最初の目標は3m滝の上に引っかかっているチョックストーンです。
右側壁をヘツりながら登り、チョックストーンの脇へよいしょと降りて一息です。
見下ろすと一か所に集まった水流が一気に落ちていきます。
写真では白く飛んでしまっている部分の岩を登ってきました。
天井の裂け目を見上げるとこんな感じです。
奥に見える滝を目指して登って行きます。
赤い側壁を登って行くと、浅いプールの向こう側に逆「く」の字状の15m滝が現れます。
左から取りついた後にヒョングっている部分をくぐり抜けて、最後は流れの右側を登っていきます。
水流をくぐって流れの右側にでると、強力なシャワーを浴びるものの、流れの中に階段状の足掛かりが続くのがわかります。
猛暑日の快適なシャワーの中を、狭い落口から突っ張り気味に這い出してきました。
安全なところまで登って、はるか下となったプールを見下ろします。
たった今、漏斗の口のように水が集まるところから出てきたとは思えない光景です。
このスリットゴルジュは、全体のグレードがⅢくらいの体感ですが、視覚効果はそれ以上の抜群のものでした。増水するとたまらないと思いますが...
落口から上流をよく見ると、遠くの高いところから滝が落ちているのが見えます。
そこまで歩いていくと、突如周囲が開けて、岩壁に囲まれた空間にでます。
川の流れは、ちょうど半分に割った円筒の底に立っているような空間の、左側の亀裂から滝で落ちてきています。
全部の段を合わせると10mを超えるこの赤い滝は、見た目よりも快適に登ることができます。
下の7割は恐らくどこからでも登れると思います。
第3ゴルジュの入口でもある最上段は、流れの右側を登り、テラス状となった落口の上に立ちます。
天井から水が滴り落ちる落口からは、下の空間が一望できると共に、そこには次の滝が流れ落ちてきています。
流れ全体を見るとこんな感じですね。
右側(下の写真では左)から落ちてくる滝が、テラスで方向を変えて半円筒の底へと落ちて行ってます。
正面(次の滝の右側)の岩棚を登って行きます。
登りながら振り返ると、とてもダイナミックな流れが見渡せます。
真下にあるテラスの左側は円筒空間へ落ちていく滝。右側はカーブしながら落ちる今登っている滝です。
ゴルジュ中央の滝を登りきると、沢は左へと蛇行し、奥には10mの滝が掛かっていました。
第3ゴルジュ全体は逆S字状となっており、3つの滝群が屈曲部で分離された造りとなっていました。
出口の10m滝は単独での直登は困難なので左岸から巻きます。
10m滝の上は、それまでの狭隘なゴルジュから一転して広い空間が広がっていました。
左側に流れを見ながら、遡行の最終盤となります。
200~300mほどで、2つ並んだ滝が見えてきます。
滝で出合う930m二俣の右俣は直登できないので、小さくて傾斜の緩い左俣へと進みます。
左俣は、出発時にクルマを停めた作原橋の下を流れる沢で、橋からU字状に走る林道が両側から近づいてきて、好きな時に林道に登れる状態となります。
そして、橋の手前100mほどで出てくるこの滝で脱渓することとしました。
直登できないこの滝は、最後の記念に右側の岩壁を登りましたが、危ないだけだったように感じたのは気のせいでしょうか。
流れで沢装備を洗い、目の前の林道へと上がります。
●2021年7月22日(木・祝)
作原橋(林道八倉線標高970m・8:10)→(林道八倉線)
→橋倉集落・橋倉川大堰堤(9:15)→右岸作業径
→最終堰堤下流(入渓・9:45)→(橋倉川遡行)
→スリットゴルジュ(11:05)→930m二俣(12:00)
→最後の滝(脱渓・12:15)→作原橋(12:30)
●本日の反省
①アプローチの林道でスマホ歩きしていたら、足をくじいた。
完全舗装なので油断していたら、微妙な陥没に引っかかった。すぐに治るといいな。
②よせばいいのに最後の滝を登った。
目の前に林道があるのに。抜けてきたダイナミックなゴルジュと比べると貧相(失礼!)なのに。なぜだろう?
もしかすると遡行時間が短く、体力が余っていたからななのか? アブナイけどすぐ横が林道だから割と安心だと感じたのだろうか?

林道八倉線途中の急斜面にある八倉の集落の下の方に「八倉大杉」という表示があったので、入渓に向かう途中に立ち寄ってみた。
小さな家並みの横にある小尾根に、巨大とは言わないまでも大きな杉が一本立っており、周囲の斜面には墓地が広がっていたが、隣接する家並みとは不相応にその規模が大きなことが心に引っかかった。
ここに来るまでの間にも、コンビニが一軒もない町にしては立派な山中に張り巡らされた舗装道路や、大規模な砂防堰堤の数々に違和感を覚えていたが、よく整備された墓地の大きな墓石の数々を見て、過ぎし日々のこの地に何があったのかが気になり、歩きながらWEBで検索してみた(途中で足をくじいてしまった...)が、合併して神流町となる以前の中里村の生活について記載するサイトは全くと言っていいほど発見できなかった。
帰宅後に探してみると橋倉の情報はなかったが、南小太郎山を隔てた東隣の持倉集落のことが、奥多摩山岳会の天野一郎氏が著した書籍(「にっぽんの山上集落を訪ねて」(白山書房)」に書かれていた。
そこには持倉在住の方からの伝聞として、昭和初期までは板材の一大産地だったことが記載されていたが、もっと興味深かったのは、江戸から明治中期までは町へ行くと言えば杖植峠を越えた下仁田のことだったとか、電気が通じたのが昭和39年(何と前回の東京オリンピックの年!)だとか、小学校は神ヶ原まで通った(現在の中里小に大福峠を越えて月曜朝に登校・土曜に下校)といった往時の生活についてだった。
確かに、立派な林道八倉線を奥へと辿っていくと、ぐるっと回って神ヶ原に通じているし、途中で分かれて八倉峠を越えると下仁田の小沢岳登山口周辺に出て、そこには八倉・橋倉周辺の大字名と同じ「平原」という集落がある。
そして、これらの生活圏が残っていたのが下久保ダム(神流湖)が完成した昭和43年頃までだとすると、旧中里村が恐竜の町へと変わっていったのは、自分自身が生きた時代ということになるではないか。
暑い中で草刈りをしていた八倉のお年寄りに声をかけてみるべきだったのかも。