猛暑の2025年も9月半ばを過ぎてようやく平年並みの気温に戻りました。
歩きやすくなってきたので、武蔵野の史跡巡りに行ってきます。
道路の両脇が土塁。土塁の裏側には空堀が並走し、広い二の丸となっています。
深大寺城は、野川や植物園・そば屋付近からの水が埋める湿地に舌状に張り出した台地に作られ、池で背後を固めて、攻め込まれやすい大沢方面の台地方向に郭と堀や土塁を巡らせて南方から来る小田原北条氏防御の拠点としていたと思われますが、歴史上信憑性のある活躍の記録はほとんどありません。
というか、活躍しなかったことにより、中世の関東勢力図大転換の立役者となってしまいました。
1546年の河越合戦時に、城主難波田憲重は川越に向かう北条氏康軍にスルーされてしまい、結果上杉・足利連合軍は川越で大敗北を喫して、滅亡への道を歩み始めます。
無視された/抵抗しなかった事情はいくつかあるのでしょうが、当事者意識に欠けた事なかれ姿勢(信賞必罰ができない指導者も元凶ですが...)が後戻りできない衰退を招くという、現代の会社にも通じる教訓を思い起こすためにも、サラリーマンの皆さんは定期的に深大寺に参拝されるのが良いかと思います。
ただ、この大温室の中だけは、色鮮やかな別世界が広がっていました。
植物公園の正門を出て大沢の住宅地を1kmちょっと歩くと、国立天文台があります。
門を入ってすぐの守衛所で申込用紙に記入するかQRコードを読んで登録すると、見学MAPを手渡されて、限定された見学コースをフリー(無料・無引率)で見ることができます。
第一赤道儀(地球の自転に合わせて天体を追尾する望遠鏡)室 (国登録 1921(大正10)年建設)
天文台歴史館(国登録 1926(大正15)年建設)
アインシュタイン塔(太陽塔望遠鏡;太陽光の分光測定設備)(国登録 1930(昭和5)年建設
子午儀資料館(レプソルド子午儀室) (国登録 1925(大正14)年建設)
旧図書庫 (国登録 1930(昭和5)年建設)
(国登録 1924(大正13)年建設)
天文機器資料館(自動光電子午環)は、ゴーチェ子午環の後継として使用され、それまで目視で観察していた天体通過を、天体光の自動検知に替えた設備に使用されていたもので、この建物の南北にある擂鉢状の窪地は、南北方向を正確に表す目的の光源が置かれていたそうです。
ただ、年周視差の精密測定が発達した現在は、これらの技術は全て過去のものとなり、歴史的な価値を残すのみとなりました。
さて、天文台を退出して野川沿いを目指すべく、天文台敷地北側に沿って歩いていると、フェンスの向こう側に一等三角点の標識が。ちょうど58m三角点の場所です。
ただ、年周視差の精密測定が発達した現在は、これらの技術は全て過去のものとなり、歴史的な価値を残すのみとなりました。
さて、天文台を退出して野川沿いを目指すべく、天文台敷地北側に沿って歩いていると、フェンスの向こう側に一等三角点の標識が。ちょうど58m三角点の場所です。
どういった経緯で家の中に水車が回っているかは解説員のおじいさんに聞いてみてください。
キレイな水を選ぶワサビが本当にここで育つのか?
東八道路をトンネルでくぐった先の橋を渡ると、芝生の広場になっており、丘の際に近いところから結構な量の水が湧きだしていました。ここが湧き水広場。
広場の横の丘の下にはフェンスが張ってあり、向こう側でシニアの団体が白い彼岸花を見物していたので、外から覗き見。
フェンスの向こう側は自然観察園で、自然観察センター近くにあるゲートが日中のみオープンしているそうです。
そして西武線から500mくらいで舗装道路の向こう側に階段を発見。
ついつい登ってしまい、崖(はけ)と湧水の散歩はおしまいとなりました。さて、野川沿いのここはどの駅からもちょっと遠いところですが、どうしようか。
時刻も中途半端な14:00頃なので、遅いお昼ご飯にでもしようと思い、東小金井駅を目指すことにします。
ここは駅への途中にある栗山公園。
駅周辺でご飯を食べている間に、線路の向こう側に小金井公園があることに気付きました。
ここを今日のゴールにします。
旧光華殿(1940(昭和15)年)
入口のビジターセンター(旧光華殿)を抜けると、左手には新旧の民家が並んでおり、中に入ってくつろぐことができます。
大川邸(1925(大正14)年)床下の通気口の意匠も凝ってます。
前川國男邸(都指定;1942(昭和17)年)
小出邸(都指定;1925(大正14)年)
近代の民家のほとんどはバリアフリー完備で、三階建ての後背部にはエレベーターがついています。
デ・ラランデ邸(1910(明治43)年頃)
常盤台写真場(1937(昭和12)年)
三井八郎右衛門邸(都指定;1874(明治7)年)
奥へと行くと江戸時代の民家。
綱島家(江戸中期)
奄美の高倉(市指定;江戸末期)
吉野家(市指定;江戸後期の書院付き名主家屋)
奥へと行くと江戸時代の民家。
綱島家(江戸中期)
西川家別邸(1922(大正11)年)
伊達家の門(大正期)
皇居正門石橋飾電灯の橋で堀を渡り、万世橋交番の前を通って、黄色い都電の方へ。
交番の向かいは旧下谷消防署の望楼の頭の部分。
村上精華堂(1928(昭和3)年)
上の写真の向かい側は都電の側から、
その横に建っている2つの建物は...裏側ですね。
反対側に回ってみると店舗でした。
対面の建物も含めて、看板建築という通りに面したところだけが洋風高層の張りぼてとなっている木造の店舗兼住宅です。
植村邸(左;1927(昭和2)年)、大和屋本店(右;1928(昭和3)年)
都電から奥の突き当りの銭湯までの道は、下町中通りという名前がついており、商家の建物が並んでいました。
丸二商店(荒物屋;昭和初期)
左から、カフェのある土蔵、武居三省堂(文具店;1927(昭和2)年)、花市生花店(昭和2年)
銭湯の右隣。
一番銭湯寄りは江戸末期から明治初期の青梅の旅館。旅籠といった方が良いでしょうか。
万徳旅館
銭湯の右隣。
仕立屋(1879(明治12)年)
建物のカテゴリーごとに区分けされている園の中で、霊屋と並んで独立した区画に建っているのは、田園調布一帯の大地主の長屋門付き豪邸。
子宝湯の左の鍵屋は、鍵を売っているのではなく江戸時代の居酒屋でした。
鍵屋(1856(安政3)年)、子宝湯(1929(昭和4)年)
建物のカテゴリーごとに区分けされている園の中で、霊屋と並んで独立した区画に建っているのは、田園調布一帯の大地主の長屋門付き豪邸。
天明家(18世紀後半)
思い立ったらすぐ行ける。 その他の首都圏近郊ハイキングの記録はこちら。
見どころ満載でした。さすが東京都。
最初からここだけ来ればよかったかも。
疲れたのでバスで帰宅。
都道15号を通る小金井駅行きのバスは5分に1本来ます。
思い立ったらすぐ行ける。 その他の首都圏近郊ハイキングの記録はこちら。
●2025年9月19日(金)
神代植物公園水生植物園(10:10)
→深大寺城跡(10:20)→深大寺(10:35)
→神代植物公園(10:45~11:40)
→国立天文台(12:05~12:35)
→大沢の里(水車;13:00・古民家;13:20)
→わき水広場(13:30)→野川公園北門(14:00)
→はけの道→はけの森97階段(14:10)
→栗山公園(14:20)→小金井公園(15:10)
→江戸東京たてもの園(15:30~16:20)
→小金井公園西口バス停(16:30)
0 件のコメント:
コメントを投稿