2023年6月18日日曜日

塩川 小森川中流 (沢登り)

2023年の梅雨が本格化して久しい6月の第三週末は、前日の金曜日(9日)に突如前線が消失して晴れ間が広がってきました。

貴重な梅雨の晴れ間ですが、降り続いた雨の影響でどこの河川も増水気味なので、普段は水量が少なく、かつ非常時の撤退が容易な場所を選定して、林道が並走するナメの川、山梨県北杜市(旧須玉町)の小森川へと行ってみました。

ここは中央自動車道須玉I.C.から塩川沿いの県道23号線(増富ラジウムライン)を北上し、江草の新紅葉大橋付近を右折して支流の小森川沿いに登り、さらに先にある岩下集落のそのまた奥へと続く林道小森川線の標高1050m付近にある橋の脇です。
地図には乗っていない堰堤から水がざあざあ落ちています。
ちなみにこの場所、Miss your kissなどのクライミングルートでお馴染みの甲府幕岩から真下に見下ろせる場所にあり、林道を登って行くと、割とすぐに幕岩への分岐となります。
(そのまま登って行くと、観音峠を経て双葉へ、木賊峠を経て昇仙峡へと続いています)

それでは、堰堤を右岸から越えて林道に沿って流れる川に入渓です。

すぐの左カーブを回ると、さっそく4mの滝が懸かっており、左横から登ります。
グレードが付かないくらいの低難度で、もちろん林道から巻いてもOK。

滝の上は平凡な渓流ですが、すぐ横の林道に駐車帯があり、釣りをしている人が3人いました。
声をかけて通していただきましたが、どなたもとてもフレンドリーで、先を譲ってくれました。

目の前で竿を出して刺激するのは躊躇らわれたので、釣り人が見えなくなるくらいまで離れようと歩いていると、すぐに長いナメが始まりました。

平水がどのくらいの水量なのかわかりませんが、梅雨の豊富な雨を蓄えた森に清冽な流れが続きます。

林道を横目に見ながら、
でも、林道から少し離れるとすぐにナメが続きます。

アプローチゼロでこのナメは貴重ですね。
ここに来るまでの林道がとにかく長かったけれども。

川を渡る橋(小森川線から分岐する奥山林道の橋です)の手前までナメは続きました。

奥山林道の橋を潜り抜けると、左岸から枝沢が合わさって平凡な川原となりますが、わりとすぐに林道小森川線の最初の橋がやってきます。
この橋を抜けると、それまでのナメが一転して小さなゴルジュっぽくなります。

ゴルジュといっても難度は低く、片側は林道の崖なんですが。

2つ目の橋の手前は小さなナメ滝となっており、まあどこでもノーハンで登ることができます。

ちなみに、小森川線の橋は全部で3本、いづれも近距離でくぐります。

2本目の橋を抜けた先はクランク状の流れの向こうに二条の小滝があります。

右側に立てかけてある木を手掛かりに(というよりも木が邪魔でした)登ります。
もちろん、もっと右側を簡単に登ったり巻いたりできそうです。

二条滝の上は二俣となっており、右俣が本流っぽくて左俣は倒木に隠されています。

50mほど右俣に入ってみましたが、特段見どころの様なものは見当たらなかったので、二俣まで引き返します。
ちなみに、右俣はすぐ先で林道のヘアピンカーブに簡単に登ることができます。

さて、倒木を乗り越えてライダーが休憩している林道に沿って流れる左俣に入ります。

平凡な流れのすぐ先でボサっぽい3つ目の橋を抜けると、最後のナメがあらわれます。

ナメの先は堰堤で行き止まりとなるので、堰堤下で装備を解除して、左岸すぐ上の林道に登って終了です。

この区間で小森川と完全並走する林道小森川線からは、案の定、沢を遡行したときに見られたのと同じ光景を見ることができました。

いや、そうでもないか、やっぱり沢の中を歩く方が全然よく見えるし、涼しいな。
それに、林道からちょこちょこ降りて釣る方が面倒くさそうだ。

●本日の反省
・取れ高なし。(音もなし)
 うぅ~む。練習にもならんかった。
 WEBでは結構魚影濃いみたいなことも書いてあったんだが...
 水量が多すぎたのか、それよりもこれだけ林道が近いとすぐに釣られてしまうんだろうな。
 もともとこういうところだから、釣り人もきっと寛大なんだろうか。
 …ということにしておこう。

・ぼちぼち歩きながら、林道を含めて2時間かからない行程で、素晴らしいナメを満喫できました。
 どちら側からアプローチしても、林道が長いけど。
 もう一つ近所に別の目的を持って行くのがいいと思います。

●2023年6月17日(土)
林道小森川線(標高1050m橋・堰堤;9:30)
→400mナメ(9:45)→奥山林道分岐点(10:20)
→林道小森川線の橋(小ゴルジュ入口;10:30)
→堰堤(脱渓;10:55~11:05)→林道
→出発地(11:25)





2023年6月13日火曜日

多摩丘陵ハイキング(唐木田駅~鶴牧~豊ヶ丘~永山~聖蹟桜ヶ丘駅)

 じめじめした梅雨時は、せっかく遠くまでお出かけしても雨にたたられるのが残念なので、この時期恒例となりつつある近所の町中ウォーキングでもしましょ。

京王相模原線・小田急多摩線界隈の多摩丘陵は過去に何回かウォーキングしたことがありますが、ニュータウン開発の手が着かなかったところか、昭和から平成の狭間で開発された南大沢以南の新しい町ばかりを歩いていたので、今回はオイルショック(1973(昭和48)年)前後に開発された、ザ・多摩ニュータウンともいえるところに行ってみました。

小田急多摩線終点の唐木田駅からスタートです。
この駅は南大沢・橋本間に新設された多摩境駅を除くと、多摩ニュータウンで最も新しい駅で、目と鼻の先にある南多摩尾根幹線道路の向こう側で町田市と接する、多摩センターエリアの南端に位置しています。

駅の改札を出てすぐ左にあるコンビニで補給し、その裏口を出た中央分離帯の道路を多摩センター方向に戻る形で歩くとすぐに出てくるコメダ珈琲店の裏側に広い公園があります。

広い傾斜地に造成された鶴牧西公園内を登って行くと、広場の向こう側に地域のレクリエーションセンター「みどりの家」があり、その裏手の歩道橋から先へと次の公園が続いています。

橋の先の鶴牧東公園は、中央部に鶴牧山と呼ばれる丘があり、それほど高くありませんが周囲を見渡すことができました。

眼下の鶴牧地区は、多摩センター駅周辺より遅れること5~6年の1982年以降に入居が開始された、ニュータウンの中では比較的新しい区域で、そのせいか地中海風の雰囲気を醸し出すタウンハウスのような物件が多く目に入ります。

山の麓には夏休みになると水遊びができる池もあるよ。

更に先の歩道橋の向こう側にはまた次の公園(奈良原公園)が続きます。
幅広い緑地が帯状に続くこの街は、最初に確保された(道路ではない)オープンスペースを基幹に設計された様で、幹線道路を跨ぎながら公園が連続していきます。
まだマイホームが夢だった人も多く、住宅の質よりも供給が優先される雰囲気が残っていた昭和50年代半ば頃に、まちづくりの基本設計から計画されたことは画期的だったのではないでしょうか。
先行してオイルショック後に入居が開始された落合や豊ヶ丘などの地区で、価格優先の低面積物件が販売不振だった影響も大きかったような気がします。

テニスコートがある場所で、東京国際G.C.方面からのもう一本の緑地帯が直交します。
そちらの方向にもちょっと高くなっている小山(鶴牧第二公園見晴らし台)があったので上に登ってみると、多摩センターの方角へ巨大な緑の帯が続いているのが見えます。

この奈良原公園~富士見通りを多摩センター方面に向けて行ってみます。

宝野公園の先で緑地は終わるので、左折して「けやき通り」を越え、どんぐり山公園の脇を通って西落通りを多摩中央公園へと向かいます。

建物の形に特徴がある桜美林大学の施設の横を通ると、多摩中央公園に入りました。
公園の南端は旧富沢家住宅が建ち、日中だけ公開されている「くつろぎの広場」で、そこを過ぎると大芝生広場と池がある公園の中心部です。
天候が不安定な梅雨だからなのか、老人以外の地域人口が減ってきているからなのかはわかりませんが、何となく閑散としていました。

ただ、池の方にあるパルテノン多摩に近付くと、スマホ画面にくぎ付けとなっている人が急に増えてきました。 ポケモンGOってまだあるのか?それとも新手のゲームなんでしょうか。

公園の北東端にあるグリーンライブセンター(温室)の先にある落合白山神社の階段を下りて公園を後にします。

今度は青木葉通りの向かい側にある亀ヶ谷緑地に行くべく、神社下の多摩公園中央通りの多摩青木葉交差点を渡って階段を登りますが、なんと、亀ヶ谷緑地は立ち入れない開かずの雑木林でした。

仕方がないので、落合団地の中を少々歩き、ぐるっと反時計方向に回って戻る形で、第一公園を経由して上之根大通りを下り、豊ヶ丘第9公園からスクールロード(通学用の歩行者道?)を経由して豊ヶ丘北公園を目指します。
パルテノン多摩周辺の落合地区と、この豊ヶ丘、それにこれから通る貝取地区は、京王線(1974年)と小田急線(1975年)が多摩センター駅まで延伸する時期に着工され、開通後に入居がはじまった多摩ニュータウンの核心部で、タウンハウスが立ち並ぶさきほどの鶴牧とは異なり、外壁に大きな字で住所が書いてある、いかにも「団地」という形のアパートが立ち並んでいます。
1973年に始まったオイルショック直後の価値観が激変する中で造成と募集が始まり、イケイケどんどんのご時世が変わって行く影響を常に受けながら人口が増えていった地域でもあります。

歩道と車道がある程度分離されているところはあるものの、道路を基軸として区画が形成され、建物も昭和のアパート風なものからマンション、戸建てと様々な価値観のものが混ざっています。

豊ヶ丘第1公園の真上に張り巡らされた鉄塔が立つ丘の上は、草が刈られてベンチが置かれていましたが、見晴らしはほんのちょびっとで、高電圧の影響が気になります。

第1公園から道路1本越えると、団地内で最も面積が大きな豊ヶ丘北公園があります。

反対側が京王相模原線・小田急多摩線と接しているこの公園は、豊かな自然が残る鬱蒼とした、この時期はとてもじめじめした公園で、どこからも特に見晴らしはありませんでした。

ただ、東側の貝取へと下る途中で、貝取大通りの向こう側の丘が少しだけ見えます。
丘を下ってあちらを目指すことにします。

豊ヶ丘北公園を東側から出て、蛇行する車道を下り、貝取神社前の信号を渡って坂を登ると、貝取山緑地の下を通ります。

段々となっている梅林の中の階段を登ると、尾根の上に出ます。

尾根の上も団地が並んでおり、団地との境界の生垣沿いからは先ほど居た豊ヶ丘北公園方面がちょっとだけ見えました。

多摩市の市民活動・交流センターの前を通って、広い芝生の貝取北公園を抜けると、「三角橋」という名前のトラス橋で鎌倉街道を渡ります。
多摩中央公園からずっと歩いてきた、ニュータウン開発最盛期の代り映えのしない街並みはここでおしまいとなります。

橋の向こう側にある永山地区は、ニュータウンの最初期に造成された最も古い地域ですが、橋を渡ってすぐの歩行者道は最近整備されたばかりなのかぴかぴかで、右側にあるはずの瓜生緑地は消滅してマンション群になっています。

しかし、200mほど歩いて「みどり橋」を渡り永山団地に足を踏み入れると、周囲は一転して古びた光景が広がります。

昔は住民の駐車場だったと思われる広い敷地が錆びた柵の中に広がり、いかにも高度成長末期を思わせる高層住宅が立ち並ぶようになります。
高層住宅の地上階の、かつては店舗だった場所のほとんどは錆びたシャッターが下り、営業しているのはシニア向けのもののみと言ってよく、道行く人も圧倒的にお年寄りが増えました。

団地の前に広がる永山南公園の緑は、平凡な公園の草木と同じですが、周囲の建造物が古いここでは毎年生まれ変わる新鮮さが感じられ、妙に生き生きとして見えます。
永山団地とこの先に続く諏訪団地は、オイルショックがはじまる以前の1971年から入居がはじまりましたが、人口が急増する当時の首都圏の住居をなんとか確保する目的で、必要最低限の広さの物件の大量供給がコンセプトだったと思われ、今となっては「とりあえず自分の家に住めれば/持てればよい」といった集合住宅が密集しています。

当初は北隣の聖蹟桜ヶ丘地区としてまちづくりが計画されていたものを、無理やりニュータウンに編入されて大量入居がはじまったそうですが、なんと、1974年に永山駅が開業する以前はここに鉄道は走っておらず、入居後数年間はバスで聖蹟桜ヶ丘駅まで行かないと通勤する術がなかったみたいです。

昭和のサラリーマンが大変な苦労して購入し、通勤地獄で返済した物件は、4人家族が寝るのが精いっぱいで、子供二人は同じ部屋に二段ベッド生活という、どこかで聞いたような生活条件で、当然子供が自立すると家を出ていき、20世紀の終わり頃には定年を迎えた両親だけが残る というのは想像に難しくありません。

車道の様に舗装された、当時の仕様の歩行者道が、隣接する諏訪団地へと続いて行きます。

諏訪団地内の公園(といっても地面はアスファルトと煉瓦貼りですが)で左折の標識を曲がると、やがて団地もおしまいとなります。

団地を抜けるところにある「電車見橋」の上から、小田急線と京王線の並んだレールを見下ろします。
現地に来る前に地図で名前だけ見ているとヘンな橋だと思っていましたが、現地を見て納得。

電車見橋の向こうは競技場が建つ多摩東公園。

公園を通り抜けて剣橋を渡ると、1980年代半ばに開発された、同じ多摩市でも南大沢と並んで新しい町、聖ヶ丘となります。

橋から都道18号線を見下ろすと、鎌倉街道を越えて若葉台や川崎方面に向かう(ニュータウンを抜け出そうとする?)車で渋滞していました。

聖ヶ丘に入ってすぐの馬引沢南公園やそれと連結する「聖ヶ丘さんぽ道」もどことなく垢抜けしているような気もします。

敷石に苔が芸術的に生えた聖ヶ丘3丁目公園を抜けて歩行者道を行くと、ひじり坂の車道に行き当たります。

ひじり坂の車道からT字に分岐したブロックタイルの下り坂が、聖ヶ丘緑地の駐車場に向けて下っており、そこが桜ヶ丘公園の駐車場ですが、もう少し坂と並走する緑地の中を歩いて行っても同じ場所へと下って行くことができます。

歩道を行くとトラス橋の下へと降りていきます。
橋の手前が市立聖ヶ丘緑地の駐車場。向こう側が都立桜ヶ丘公園です。

桜ヶ丘公園は緩やかな丘陵の凹凸が美しい公園です。

隣に連続する多摩市大谷戸公園には「キャンプ練習場」なるよくわからない施設がありますが、なにやら楽しそうです。

「とんぼの広場」から丘を登ると、休憩に適した広場や旧聖蹟記念館なる建物もありました。(既に閉まっていたのでこの建物が何なのかは不明)

さて、日暮れも近くなってきたので、駅へと向かうことにします。
丘を下って西中央口から公園を出て、ひじり坂を下って行くと、乞田川沿いの鎌倉街道(都道18号)、熊野橋交差点に出ます。

対岸の鎌倉街道の一本向こう側の旧道には熊野神社があり、その左脇の暗い坂を登って住宅地を左側へ行くと原峰公園です。

園内はちょうど熟した梅の実が転がり、香しい香りに包まれていました。

園内にあるコミュニティーセンターの前から外に出て、止まれの標識を左に行くと...

入る前に一旦停止するロータリー交差点をはじめてみました。
ロータリーにする意味あるのかな?

などと言ってはいけません。
ここは90年代半ばのアニメ映画の舞台となった聖地。

帰るべく、乞田川と大栗川の間に伸びる尾根上に続く「いろは坂通り」を駅へと向かいます。

尾根の突端には金毘羅様のお堂がありました。
ここって、映画の主人公がコクられた場所か?
訪れた時は誰もいませんでしたが、縁結び目当ての人がたくさんやってくるのでしょう。
防犯カメラが光っていました。
そういえば、映画では縁がむすばれたんだっけ?

そして、お堂の脇からは、
おお。これぞまさにアニメのいろは坂。

主人公が(実在しない)図書館へと登って行った坂道を下り、霞ヶ関橋で大栗川を渡ったら、杉の宮駅ならぬ聖蹟桜ヶ丘駅に到着です。
「カントリーロード」の発車チャイムを聞きながら家路に着きましたとさ。

思い立ったらすぐ行ける。 その他の首都圏近郊ハイキングの記録はこちら

●2023年6月10日(土)
唐木田駅(13:20)→鶴牧西公園(13:30~13:50)
→鶴牧東公園(鶴牧山;13:55)→奈良原公園
→鶴牧第2公園見晴らし台(14:00)
→富士見通り(14:10)→宝野橋→どんくり山公園(14:15)
→多摩中央公園(14:25~)→落合白山神社(14:40)
→落合団地(第1公園)
→豊ヶ丘第9公園・スクールロード(14:55)
→豊ヶ丘北公園(15:10~15:25)→貝取神社前
→貝取山緑地(15:35)→貝取北公園(15:45)
→さんかく橋(15:50)→みどり橋(15:55)
→永山南公園(16:00)→電車見橋(16:20)
→多摩東公園→馬引沢南公園(16:25)
→聖ヶ丘3丁目公園(16:30)→桜ヶ丘公園(16:45~17:15)
→熊野神社(17:30)→原峰公園(17:40)
→桜ヶ丘ロータリー(17:50)→金毘羅宮(17:58)
→霞ヶ関橋(18:05)→聖蹟桜ヶ丘駅(18:10)



1ヶ月くらい前に、たまたま1995年頃に制作されたジブリ映画の「耳をすませば」をはじめて見た。
昨年の夏の終わりに地上波で放送されたものを、春に会社勤めを始めて家を出ていった娘が家のハードディスクに録画していたものだ。
見ていなかったら終盤に現れたロータリー交差点やいろは坂、駅の発車チャイムにも何も感じずに通り過ぎていたところだった。

今、グーグルで「耳をすませば」と検索すると、次に自動的に「実写ひどい」とでてくる。
主人公たちの10年後を扱った実写版の評価らしいが、話を聞いてみると、酷評される理由は、終盤の脚本の雑さもあるみたいだが、大半は元のアニメのイメージとのギャップによるものみたいだ。
実写版を見てもいないのに勝手な感想を述べるのは大変失礼だが、原作コミックが描かれた1980年代終わりから10年経過した2000年頃を想定した話を、コロナ開けの2022年に未来のストーリーとして描こうとすると、確かにギャップがたくさんでてきそうだ。

主人公たちの近未来が違和感満載な一方で、その両親の30年後を表現した場合は、ほぼ全ての人に異論がないものとなるように感じる。(異論がないというのは見る意味もないのだが...)
舞台となった主人公「雫」の住んでいたアパートは愛宕団地に実在するみたいだが、今日歩いてきた諏訪・永山団地と線路を挟んで立地するこの団地は、1970年代初頭にほぼ同時に入居が始まった、居住性よりも住める場所が存在することを優先して建てられた物件で、映画でも姉妹は狭い部屋を共用しており、恐らく入居直後に誕生したであろう姉は(二十歳前後と思われる1990年代前半に)新しい生活のために家を出ていった...
さらに時は流れて30年。令和の愛宕団地の高齢化率は40%を超え、たった先ほどまで場所は違えども同時代の団地の中を歩いて、雫の両親達のその後のリアルに多く出合ったような気がする。

ちなみに、「実写ひどい」と表示する前のグーグルでは「鬱」と出て来たそうで、こちらは夢と希望に向けて中学を卒業したばかりで海外へと旅立つ交際相手のリア充と自分を比較したことによるのでは とのことであるが、コロナとウクライナ戦争を経た今日、為替暴落と物価上昇・賃金下降の中で、夢やリア充のためではなくリアルな生活収入のために日本を出ていく時代がやってきた。

思えば若いころの自分(恐らく主人公の両親や映画の監督たち)も生活のために(当時は今の海外の様であった)首都圏に移り住んで、過去のイメージとは違うし鬱とも無縁の生活を送ってきた。
これから海外へと羽ばたく若者は、行った先の国の愛宕団地で暮らすのだろうか。
そして、永山団地は自分たちが出てきた町と同じ運命をたどるのだろうか?
...カントリーロード。

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